首都圏を離れ、奥多摩で暮らすようになって3ヶ月が過ぎた。

もちろん楽しいことばかりではないが、喧騒から離れた場所での暮らしは、快適か不快かのどちらかと言われれば、快適である。コンビニまでバイクを飛ばして30分の暮らしも、近所のスタバまで1時間かかる暮らしも、10月なのに気温が10度を切る暮らしも、明かりをつければ虫が年中飛んでくる暮らしも、近所のおばあちゃんの立ち話を聞いてたら会社に遅刻しそうになる暮らしも、慣れれば、どうってことはない。

自分の家があるのは標高500mの奥多摩湖畔。買い物、出勤、家を一歩出れば必ず湖畔を車で走ることになる。そこは首都圏から数多くのライダーが走りに来る峠道だ。自然を中心とした都心では見られない景色が広がっている。3ヶ月という年月はあっという間のようであり、人間の感性を変えるには十分な時間なのかもしれない。もやのかかった白く広い空も、深く折り重なる山も、その景色を印象派の絵画のように描写する湖もすっかり見慣れてしまった。慣れれば、どうってことはない。

慣れることは怖い。感性が削られていくように感じる。寝てる間に歯ぎしりをし過ぎて犬歯が無くなってしまった人は、犬歯のある喜びも、ない不便さも自覚しない。もちろん生きていく上で「順応性があること」は重要だ。バジルの売っていない田舎に暮らしていれば嫌でも米食を食べなきゃいけない時はある。

でも好き嫌いはあっていい。言語化された「好き」「嫌い」によって個人の唯一性を表現できると言っても過言ではない。食べ物の好き嫌いが人によって違うことが食料受給バランスを守っているように(本当かどうかは知らない)、好き嫌いによってもたらされる均衡は沢山ある気がする。言葉先行の全体主義を防ぐのは人間の好き嫌いなんじゃないかとすら思う。バジルが好きだけどしかたなく米食を食べるのと、バジルを好きだと思わなくなるのは、全く違う。

ある雨の降った日の夕方、会社からの帰り道をバイクで走っていて、風景がきれいだったので写真を撮った。

何が違っていたから撮った、というより、いつもと何かが違って、きれいだった。何が違うのか分からない。雲の形か、西空の色か、山の深さか、風の吹き具合か、湿度なのか、温度なのか。分からない。きれいだった。

順応性がある、ということは、どこかで差異を認識し適応するために自己を変えているということだ。写真に撮ったその景色を、あの時何台も通り過ぎた運転手と同じ様に、僕はいつの日か見慣れてしまうのだと思う。僕はあの景色の何をみて、美しいと感じたんだろう。そう自問することが、新しい「好き」を生み出すような気がした。

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事