幸田文の短編集「台所のおと」のなかに、「濃紺」という話がある。ほとんど小説を読まない自分の琴線に触れた稀有な作品だから、よく記憶している。

題名の「濃紺」は下駄の鼻緒の色からつけられている。えんじ、しそ紫、濃紺と、すげ替えられていく鼻緒。年増す毎に色濃くなるそれに、主人公「きよ」の半生がさりげなく仮託されていた。

履物屋の店員である青年が、東京を離れ故郷へ帰る前に「くせ」のある下駄を主人公に送る。「今日の下駄とは比べ物にならないが、その分仕事に手間はかけた。それだけが価値だ」と伝える青年の淡々と描かれる好意。並ぶ語彙の美しさと、つなぎ合わせて見えてくる「きよ」や青年のイノセントな心理が、読み手の心をいくばくか清涼な気持ちにさせる。

「今度履き減らせば、もう別れであり、きよはそれをいとおしんだ。そこはかとない執着が、あの人と下駄とを結んで漂っていた」

しまってある下駄を思い出した「きよ」の若かりし頃の回想は、愛が形にならなかったことを示すそんな言葉で締められ、僕を存在するはずのない郷愁に誘うのだった。

高校現代文の教科書に載っていた「濃紺」は、その絶妙な読後感とともに、自分のなかにある「忘れてはいけない作品リスト」に登録された。そしてそれは、京都の大学生だった僕が洛中に住み始めて真っ先に欲しくなったものを「鼻緒のある履物」にさせるほどのインパクトを持っていた。

鼻緒をすげ替えできる履物なんて、下駄、草履、雪駄くらいしかない。木材は重くコンクリートを歩けば容易にすり減る。自転車に乗れば、ペダルに力が伝わりにくく不便だ。下駄と草履は候補から外れた。牛革底だと雨に濡れた日に履くと傷むが、「雪」駄と呼ぶくらいだから、履けないこともないだろう。街中で普段履きしやすいのは、底が平たく薄い、雪駄だった。

 

 

新京極をぶらついていた時、錦通りに「大島履物店」を見つけた。入り口に掲げられた模造紙に「下駄草履の鼻緒、すげ替します」の文字が書かれている。台座に鼻緒が取り付けてある既製品を取り扱う店は多いが、ここなら、台座と鼻緒に好きなものを選んで、あつらえてくれそうだ。標準語を馬鹿にされないだろうか、など、今となってはしょうもないことに気を揉みながら、やっとの思いで店主に話しかけたのを憶えている。

最初に作った雪駄は、い草を台に、鼻緒は濃紫に白地のトンボ柄だった。そのまた昔に下駄を買った時、鼻緒を化繊にしたばかりに、当たる指の間や、親指と小指の付け根が擦れて出血した。そのことを店主に話したら、「これを使ったらええ」と勧められた鹿革印伝を贅沢にもしつらえた雪駄が、出来上がった。

大学2回生で洛中に引っ越したから、2回、3回、4回と、年一回、計3足の雪駄を買ったことになる。寒い日も暑い日も、晴れの日も雨の日も、雪駄にジーパン、シャツかジャケットを羽織り、自転車で大学、定食屋、銭湯、スーパー、自宅を行き来する毎日を送った。雨の日に履けば傷むのは自明、革底と台座が剥がれれば、セメダインで止めた。雪駄は千利休が創案したものとどこかで知り、福寿園の就活説明会にも雪駄を履いていった。もちろん、会社案内はもらえなかった。

無茶な履き方をすれば、台上のイ草はすぐにほつれ、鼻緒も傷みがはやい。文字通り「ボロボロ」になった頃、だいたいそれは春のあたたかくなった日で、そうなると僕は鼻緒を選ぶ楽しみを胸に、意気揚々と履物店に向かい、雪駄を新調するのだった。年に一度は作り直してもらう。それは僕の中での決めごとになっていたし、社会人になって東京に戻ったとしても、春になったら京都を訪れ新調する、僕のなかにある「そこはかとない執着」がそんなルーチンを望んでいた。

齢、30。大卒とともに東京に戻り、気がつけばずっと東京(といっても新橋、溝の口、奥多摩と環境はバラバラだが)で働き続けている。社会人になっての8年はあっという間だった。京都には何度か行ったが、雪駄を買ったのは25歳前後の、たった一度きり。ビジネスシューズやスニーカーばかり履くようになり、雪駄の出番はめっきり減った。履くのはせいぜい、週に2日。ただこれが不思議なもので、限られた日にしか履かないはずの雪駄が、1〜2年でやはり「ボロボロ」になるのだった。

奥多摩に移り住んで自分で車を運転するようになった今、いよいよ雪駄を履く出番は、ほとんどない。普段履きはサンダル、よく歩く時は足首を守れるブーツ、あとは登山靴に、長靴。使わない、と頭では分かってはいる。それでも、京都に行く度に僕は錦通りの「大島履物店」に行って新調したい気持ちにかられてしまう。

 

 

先日、男二人で京都を旅した。朝10時。大陸を渡ってきた流行り病に大きく観光客を減らした街は、大学時代を思い出すのに十分な静けさだった。四条河原町から新京極に入り、錦通りを左折する。まもなく見える錦市場は寺町通を起点に高倉通まで続いている。御幸町通、麩屋町通、富小路通を渡って左手数軒先に見えてくるのが「大島履物店」だ。

老大人になる店主と息子の2人でやっているはずの店。いささか心配していたが、月日を感じさせない程度に店主は健在だった。

「11時に息子が来る。それまで店番」

あと何回、店主に作ってもらえるだろう。不謹慎にもそんな想像が頭をよぎった。

 

今日、作ってもらおう。

 

店主にお願いして、鼻緒を見せてもらう。ビロードとか合皮じゃなくて、鹿革のやつ。

そっちか、と言いながら棚の下段からごそごそと、何本か取り出して机の上に並べた。

いま本数が少ないんや。ごめんな。

 

 

黒、茶、合わせて10本くらいか。あれ、トンボ柄が無い。

あれなぁ、売れてしもうたんや。セットで購入するさかいに。

印伝の鼻緒にも柄はいくつかある。それを1本ずつ詰め合わせのセットで取り寄せているため、1本売れるとその柄の在庫は無くなるそうだ。じゃあこれ。茶の、6枚の花弁柄で。

台はいぐさ表でええやろか。

はい、それでお願いします。

ちょっとまってな、30分くらいかかるけど。

もちろん、大丈夫です。

 

 

下駄、草履、雪駄、スリッパ、普段履きから祭り用途まで揃う店内を見回しながら、作業する店主をちらちらと見る。作業中に話しかけるのもどうか、と思いながらも、大学のときに、ここで毎年新調していたことを、伝えた。

ほほ、そうか〜。

ちょっと嬉しそうに、雪駄を見ながら笑ってくれた。

 

 

その日、次の日と、京都旅はその雪駄を履いて回った。北野白梅町の一銭洋食「おもひで焼き」、東山奥の南禅寺、その上にある日向大神宮、西大路三条のわらじ亭。どこを歩いても京の街に雪駄は馴染む。

鼻緒に鹿革を選んだとはいえ久しぶりに履いた雪駄だ、指の付け根の皮膚は剥けた。ビロードよりむしろ硬く、鼻緒が足の形に合うまではそれなりに痛い。かかとを台座から出して履くのが粋とされるが、旅行者ゆえ、リュックを背負えば重心はかかと側に寄る。歩数を増す毎、足裏を木槌で叩かれてるような感覚もあった。

「濃紺」と大学時代の懐かしい記憶が、雪駄を相当に美化しているのは間違いない。一歩一歩鳴る「シャリ シャリ」の音が心地よかった。

 

この一年、奥多摩で履く機会は、ほぼ無いだろう。

だから、車に積んで、都心に出る時に履こうと思っている。そして来年、店主にまた新調してもらおう。

東京に戻ってきて、そう、誓った。

 

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